韓国企業に勤める在野研究者ブログ

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【真の勉強とは】朝鮮儒学者、退渓先生に学ぶ自己完成の勉強法とは?

 

私たちは何のために勉強するのでしょうか?
偏差値の高い大学に行くため?
世間的に有名な会社に就職するため?
会社で昇進するため?
現代社会で行われている勉強とは一言で「他人よりも早く、高く、強くなるための手段」に転落してしまいました。
このような勉強の姿は近代教育が成立する過程の中で伝統的な教育が断絶してしまった結果です。
近代教育は社会進化論を土台としながら適者生存の競争の中で行われ、時には国家主義の影響下で国家の発展のための手段に転落してしまいました。
結果的に勉強の真の意味が変色してしまいました。

勉強の意味を退渓先生に尋ねてみる

この現代社会の勉強から抜け出し「なぜ勉強するのか?」に対する答えを求めようとすることは、一見、時間の無駄な浪費であるかもしれません。
知識の量だけを問われる教育現場では知恵を見出すことはできません。
 
このような勉強の風潮を韓国の1000ウォン紙幣に描かれている退渓先生がご覧になられたら、何と言うでしょうか?

 

 
退渓先生(1502~1571)って誰?? 李氏朝鮮中期の儒学者。字は景浩(キョンホ)。李珥(栗谷)と並んで、朝鮮朱子学における二大儒と称される。 慶尚道安東(現在の大韓民国慶尚北道安東市)出身。11歳で論語学びはじめ、20歳頃に儒学の学問に没頭して病弱な身体で有名な学者になった。33歳で科挙に合格した後に中央や地方の官僚として活躍した。両班として文科及第ののち成均館の司成となるが、1545年の乙巳士禍で失脚した。その後、たび重なる出仕の命に応じて丹陽郡守となり、豊基郡守時代に朝鮮半島初の賜額書院、紹修書院などを実現して書院文化を築いた。成均館大司成などを歴任した。豊基郡(現在の慶尚北道栄州市)守時代には紹修書院を開いた。年には郷里に隠棲し、「陶山書院」を開き、儒教の研究と後進の育成に力を注いだ。(wikipedia 参照)
 
退渓先生は以下のように語ります。
 
"功利的な下心を少しでも持つならばそれは学問ではない”
 
先生にとって勉強とはどういうものだったのでしょうか?
 
まず儒教の教えの根幹ともいえる孔子の言葉に以下のようなものがあります。
 
"古之學者爲己, 今之學者爲人”(憲問篇)
古の学者は自身のために勉強をしたのに、今日の学者は他人のために勉強している
 
富貴や栄華のみを追求した勉強風潮は孔子が生きていた遥か昔にもありました。
特に退渓が生きていた朝鮮中期においては、勉強する目的は科挙試験の合格にありました。
大科に合格することは第一の目標であり、それが難しいのであれば、少なくとも小科に合格して進士や生員になり両班階級の地位を得ようとしました。
当時においても勉強は社会的地位と富を得るための手段でした。

儒教における勉強の種類

 
勉強には二つの種類があります。
 
  • 「爲人之學」:他人に見せびらかすための勉強
  • 「爲己之學」:自分を完成させるための勉強
 
前者は他人の視線を意識したり、「他人も行うから私も勉強する」といった、勉強の態度を指します。
後者は自己完成や家族のために行うための勉強態度を指します。
 
今日、日本の教育現場を見たとき、学生たちが楽しくもない辛い勉強を強いられています。
なぜならば、自分の問題ではなく他人によって規定され他人の視線を意識した勉強を半ば強要されています。
 
退渓先生を含め、当時の朝鮮儒学者が考える勉強の目的とは聖人になることでした。
そして聖人になることこそが至極の幸福があると考えていました。
反対に「爲人之學」を行う人は自我に関心がなく、人間とはどのような存在であり、どのように生きれば意味のある人生を生きることができるのかを悩んだりはしません。
その結果、自己のアイデンティティーの確立は難しくなります。
 
退渓先生は人生において官僚勤めやそこから来る名誉を遠ざけて生きてきました。
君主が何度も官職につくよう提案しましたが、これを拒否し、弟子たちの養成と学問探究に力を注ぎました。

退渓先生が考える勉強とは

退渓は勉強する際、次の二つを実践していきました。
 
  • 「居敬」:心を「敬」の状態におくこと
  • 「窮理」:世の中の理を悟る
 
まず「居敬」による勉強を通して心を落ち着かせます。
人間の心は休むことなく動いています。
外部から誘惑を受け、そこに受動的に反応します。
数多くの雑念が生まれます。
欲心や雑念を空っぽにし、静かで純粋な心、つまり「敬」の状態に戻らなくてはいけません。
そして対象に集中し、世の中の理を悟るようにします。
ただ多くを読み、知ることだけを目標として勉強をしてはいけません。
 
退渓は幼い宣祖にこのような教えを説いています。
 
孔子は「学んでそれについてよく考えなければ、本当に理解することはできない。反対に考えるばかりで、学ばなければ独断に陥る危険がある(為政篇)」とおっしゃいますが、
学びは、須く心で体験した後、自分のものになり真実なものになり、そうすればいい加減なものにならないものだ"

 

退渓は程度が過ぎた勉強を警戒しました。
早く成就しようとする欲心により、学びの楽しみや思索する深さを逃してしまうからです。
 
また退渓は次のように語ります。
 
"本を読むときは心が苦しい状況に至るようにしてはならず、多くを読むのは禁物である。文章の意味に従ってその味を楽しまなけてばならない。無理やり探究するのではなく、だからといって完全に見放すのでもなく、静かな心で現象を照らし見なければならない。むしろ少ない量を読んでそれをじっくり思索し、一つを知っても正確に理解して自分のものにしていくことが大切である。"
 
退渓先生の勉強とはつまり「自己完成のための勉強」でした。
本をたくさん読んだからと言って、そこで得た知識は人生の血と肉とはなりえません。静かな心を備えて文章の意味を味わっていき自己に照らし合わせていくことが重要なのです。
多くの自己啓発本では多読が推奨されていますが、読書量より読書の質も大事だと考えさせられます
 
参考文献↓